「好き」と「人生」

 

 

本が好きだ。

 

 

 

最近は、よく読書をする。

 

 

一時期は 半年に一冊程も読めておらず、

 

“こんなんじゃ本が好きだなんて

 とても言えないな…”

 

と、自分の“本が好き”という気持ちに

自信を持てなくなっていたけれど。

 

 

 

 

時間ができると、やっぱり

読むようになった。

そんな自分に安心もする。

 

 

(いや、時間がなくても、本当に好きなら 読んでいるとは思うが…。)

 

 

 

 

 

ブログを始めて、自分の心と

よりよく向き合うようになり

つくづく思っているのは、

 

 

なにかにつけて自分は

人と比べてしまう性格、ということだ。

 

 

 

 

“わたし、本は たしかに好きだけど

  周りに比べれば全然よね…もっと

  本が好きな人、いっぱいいるよ…”

 

 

 

 

……いや、別にエエやん!!?(笑)

“本当に好き”ってナニ???(笑)

 

 

という感じ、なんだけど。

 

 

 

 

他のことについても、

 

「好きなら 好き、でイイんですよ」

 

と言われたこともある。

 

 

 

それでもやっぱり、何かにつけて

そう思ってしまうのだ。

 

 

 

つまり 裏をかえすと、

人より優位に立っていたい、という

気持ちの表れなのかもしれない。

恥ずかしいことである。。。

 

 

 

 

 

 

 

話を戻すと、最近は本屋に行って

“嗚呼、なんて最高の空間…”

と、くつろぐことも多く。

 

 

 

そうなると、

 

“これだけ本が好きなら、やっぱり

 本に関する仕事に就くべきか?”

 

“でも出版系の仕事で

 定時はあり得ない(だろう)し、

 書店員は やったことあるし…”

 

“今の理想を捨ててまで

 本に人生は捧げられない…

 わたしは所詮その程度の想い…”

 

と、また勝手にグルグル考えていた。

 

 

 

 

その時に、ふと

思い出した場面があった。

 

前に担任したクラスで、視聴覚委員が

決まらなかった時のことだ。

 

 

 

基本的に“視聴覚委員”は

図書や放送に関する仕事。

 

文化的なものが好きな子には

そこそこ人気もあって、

時には選挙になる場合もあった。

 

 

 

だが…我がクラスの、

男子視聴覚委員が一向に決まらん…

という事態勃発。

 

 

(学校にもよるけれど、勤めていたところでは「委員会は原則、立候補制」だった。大体は 意見を聞いて目星をつけ、立候補が被れば選挙…という流れで、担任の力量というものも多かれ少なかれ、発揮されるもの。ただ、事前に「立候補する」と聞いていたとはいえ、本人の気持ちが変われば仕方がないと思う。責任が生じたわけじゃないんだから。)

 

 

 

待てど暮らせど、立候補者は出ず。

 

(本来なら…誰かが責任感をもって立候補し、周りは感謝する、というのが理想的なのだ。美しい。けれど、社会は誰かの無理で成り立っている部分もある。報われないことを察知して、「自分は背負いたくない」と考えるのも、道理だと思う。「やりたい」と「やりたくない」の需要と供給が一致すれば、願ったり叶ったりだが…)

 

 

 

そこで、普段からよく図書室に

通っている子に白羽の矢が立った。

 

本好きなら、視聴覚委員も

きっと苦ではないだろう。

真っ当な推薦だと思って、

わたしも声をかけた。

 

 

「アナタはどうか、という声が

 あがってるけど、どう?

 いいんじゃない?」

 

 

 

しかし……彼は断固として言った。

 

 

 

 

「いや、僕は純粋に図書室を楽しみたいので」

 

 

 

 

 

……なるほどなぁ、、、(早い)

 

 

いま思えば当たり前の考え方かも

しれないが、目からウロコの気分だった。

 

 

「本好きなら、視聴覚委員

 やったらイイじゃん!?」とは、

実に安易な考えだったのだな。

 

 

達観している、とさえ思ってしまった。

 

 

 

 

 

 

その言葉を、本屋で思い出したのだ。

 

そして、なんだか気が楽になった。

 

 

 

「好きなら、自分もやったらイイじゃん!」

 

というのも一つの考え方だし、

 

ツイッターなんかを見ていると最近は

「絵を描くのが好きだから、漫画家に」

というような人が、増えたように思う。

(絵描きを多くフォローしているので、関連でたくさん出てくるだけだが) 

 

 

 

 

それでも、

「好き」の気持ちの大きさと

「人生」への関わりの深さは

必ずしも一致しないのだな、と

改めて感じさせられたのだった。

 

 

 

 

 

それと、数年前に一緒に組んだ先生が、

 

「何冊も読む人を世の中は“読書家”と言うが、

 愛着のある一冊を何度も読み込む人をこそ

 “読書家”と呼んでいいと思う」

 

と言っていたのも、印象に残っている。

 

 

 

 

本に関する仕事をしている

わけではないけれど、

数もそれほど多くないけれど、

やっぱり本が好きです

 

と、自分の気持ちに自信を持ちたい。

 

 

 

 

 

ちなみに視聴覚委員は結局、

異例のクジ引きで決めた。

(学校でよくある、「お前やれよ」の無言の圧力に 弱い立場の者が屈する、という状況になるよりは、よっぽど良かったのではと、個人的に思っている。いや、それに「やるべき」と自分で感じている子は、大体すでに出てくれているのだ。集団生活は難しい。大人だって、PTA役員をクジ引きで決めることが多い。)

 

 

「やりたくない」という意志が固く、

一周回って「お前ら…やるな…?」

という気分だった。

 

 

 

 

その結果、

「オレ委員会とか絶対やらんから」

という感じの子が

当たってしまったのだが、

 

 

「よりによって お前かい」と、

むしろクラスの空気が和んだ気がして

ありがたかったなぁ、と今も思っている。

 

 

本人は、

サイテーの気分だっただろうけれど。笑

禍の中で思うこと。

 

 

あーーーーー。

 

先に言っておくと、

この話に結論はないのです。

 

 

ただ、最近のモヤモヤを吐き出すだけ。

もしかしたら、

不快に思われるかもしれないな。

 

 

 

 

緊急事態宣言の発出が決まった。

そのことについて、

大賛成!!…というわけでも、

大反対!!…というわけでもない。

 

 

すべてにおいて、

 

なんだかなぁ。

どうにかならんもんかね。

 

…と、強く思う。

 

 

一見、他人事すぎるけども、

本当に、“どうにかならんか…”

としか、思えないのだ。

にっちもさっちも。

 

 

実際、宣言が出ることで、

 

“遊びに行けな~~い”とか

軽いものではなく、

 

本来あるはずの思い出が

失われてしまったり、

ずっと描いていた理想を

諦めざるを得なかったり、

 

人生が大きく変わってしまった人が

どれほど多くいるだろうか。

もうイイでしょ、コロナ、とも感じる。

 

 

だからといって、このまま

感染状況を放ったらかしにする

ことも、できないんだろう。

 

 

 

医療体制がヤバイから、

というのは もちろんのこと。

 

感染者が増え続ける国で、

世界各国の選手を招致して

オリンピックなんか出来やしない。

 

 

“オリンピックなんかより

 優先するものがあるでしょ”

というツイートも、見かけた。

 

 

いや、わたし自身、

東京オリンピックが決まった”

ということにすら、

 

“へ~~~~~、みんな観たいの?”

くらいの感想だったし

 

 

東京オリンピックより

東京事変の復活のほうが

よっぽど興味はあったけど、さ。

 

 

 

 

でも、オリンピックの経済効果って

すごいんでしょう?

 

あれだけ大きな競技場を建てて、

色々なところで色々な人が 

何年も前から準備をしてくれていて、

 

それが中止になんて なってしまえば、

それこそ 歴史的にも前代未聞で

大赤字で、大変なんでしょう?

(でも実際はどのくらいなのか、分かっていない。尊敬する社会の先生が仰っていたことを鵜呑みにしているだけだ。こういうこと、もっとニュースで言ってほしい。)

 

 

だから、国も必死なのだ。

 

きっと、みんな、分かっては、いるのだ。

 

 

それでも、どうしようもない状況や

鬱屈した気持ちを、誰かに

ぶつけたいだけなのだ、多分。

 

 

(いや、まあ細かく言うと本当に現場を分かっていない政策もあるから、それに対しての意見や文句はあるけどもね)

 

 

 

 

 

ただ……こんな風に嘆いておいて、

 

わたし自身は 

先週の数日間 原付で一人旅に出ている。

今しかない、と切に思っていたから。

すみません。

(何に対して謝っているのか、分からないけれど)

 

 

ほとんどがコンビニとビジホだったけれど、

ちゃっかり旅館に泊まって温泉に浸かり、

観光として街歩きを楽しんだ日もあった。

 

天気も荒れていたし、色々と事件もあった。

いつか しっかり書きたいと

思っては、いるのだけども。

 

 

 

考えられるのは、

「このご時勢に?」という反応。

 

個人的には、“一人”であることと、

“ことあるごとに消毒・マスクは徹底”

意識していたので、問題なかったと思う。

 

 

…それとも、自分が、そう思いたいだけか。

 

 

 

以前からも、

外出自粛とはいえ、映画館なら

感染リスクは ないのでは?とか

考えていたし、自分なりの

線引きがあったつもりだ。

元から、考えは変わっていない?

 

 

いや、それとも、気持ちが緩んだだけか。

初めのほうは

“一刻も早く感染者を減らしたい”と思って、

あらゆる接触を絶っていた。

前なら、こんな旅も出なかったはず?

 

 

“お前みたいなヤツが感染を拡げるんだ”

“いえ、感染対策は徹底しています”

“そうやって今も感染者は増え続けてる”

“でも感染リスク低いところで

 経済を回していくべきでしょ”

 

 

頭の中で、いろいろな意見が

渦巻いていた。

 

 

 

 

 

それと先日、ライブを観に行った。

 

世間では、“ライブ”というと、ひとえに

観客席で叫び、もみくちゃになっている

イメージが強いことに、驚く。

 

 

実際は、数十人の観客も

距離を保ってマスクをし、

少しばかり体を揺らしながら、

おとなしく聴き入っているだけだった。

 

 

 

それに比べれば、たった数人でも、

食べたり話したりする方が

よっぽど感染リスクは高い。

 

 

 

 

 

 

しかしながら、“みんな”が、

“コレは大丈夫だから!”と

大手を振って出かけ始めると、

感染対策が緩んでくるのも明らか。

 

 

だから、自粛の必要がある。

分かっては、いる。

 

 

 

ということは、

“自粛”をしていない人が

非難される理由としては、

 

それがたとえ 実際には

感染リスクの低い行動だったとしても、

 

“みんな我慢してるのに!”ということ、

なのかな。

 

 

その 周りの目を怖れる気持ちが

人一倍強い日本だから、“自粛”だけで

最初うまくいったんだろうな、とも思うし。

 

 

 “コロナとうまく付き合う”って、

一体どういう生活が正しいのだ?

 

 

 

結局、自分のしたいことに対して

言い訳をしているだけにも思える。 

醜いな、と考えてしまう。

 

 

それでも、ある程度は

経済回していくべきなんじゃ?

 

 

そういう意味で、

“まん防政策”は、中途半端ではあれど

考え方には賛成だった。

これも、よくは分かってないけど。

 

 

 

昨年、リーマンショック以来初めて、

自殺者の数が増加したらしい。 

これはニュースでは あまり聞かない。

報道も、誘導したい方向の情報を選ぶ。

 

 

 

だから、何が正しい情報かも分からない。

 

 

 

コロナで亡くなる方と

経営難などで亡くなる方、

どちらを選ぶ?

そもそも、その情報も正しい? 

 

 

 

いっそのこと、初めから

「コロナとか どうでもいいしな!」と、

100%割り切れていたら、楽だったか。

 

 

もはや、“コロナも政策も、

何も気にしてない”という人を

責める気にはなれない。

清々しいとさえ思う。

 

 

 

 

でも、“自粛疲れ”という言葉には

バカバカしさを感じてしまう。

政策を批判して、遊んでいる間にも

現場は苦しんでいるんだぞ。

 

 

 

…と、自分の中の矛盾に対峙して、

勝手に疲れているだけである。

 

 

 

 

 

みんな、どうなんだろう。

 

 

そういう鬱々とした思いが、

 

「早くみんなで前みたいに

 ワイワイできるようになりたいね」

という会話に込められているんだろうか。

 

 

 

今の日本ではまだ、

祈りのような言葉だけど。

 

 

 

 

“先生”という形

 

 

新年度になりました。

“先生”では なくなって、もう10日経つ。

次の仕事は決まっていて、

それまでの間 ゆるやかな日々を

過ごしています。

 

 

「先生」と呼ばれるのが

当たり前だった頃は、

「本当に先生じゃなくなる日が

 くるのだろうか?」と、信じられない

気持ちだったにも関わらず。

 

実際に終えてみると、

意外すぎるほど 自分とは無関係に

学校の慌ただしい日常は始まっていて、

「私は本当に先生だったのだろうか?」

とさえ思うほどです。

 

 

とかなんとか 考えていた矢先、

教え子ちゃん(どこまでを“教え子”と言っていいものなのかは、ずっと疑問だった。たとえば接したのは1ヶ月だったとしても、“教え子”と言っていいのだろうか?など…ぶつぶつ)

 

が、卒業後に教えたラインで

「入試、国語が一番高かった。

 3年間教えてもらったから報告しとく。」

なんて、伝えてくれたので。

 

 

ああ〜、ちゃんと

国語教師をやってたのね、私…

思わせてもらいました。

経歴詐称ではないようだ。笑

 

 

 

振り返れば、楽しかったなと

やっぱり思う。

大変だったが、よく笑った4年間だった。

 

「次は弟・妹が入ってくるので

 よろしくお願いします」

なんて言われると

胸がチクリと痛んだし、

(来年いないの、なんて言えなくてすまないな…)

 

部活の子や、卒業生を想って

どうしてるかな〜などと

ふと考えることが、

今も、これからも あると思う。

 

 

 

 

“先生”でもなく、ただのOLに

なるということで、ブログやインスタも

オープンにしてしまうことにした。

タグ付けとか、鍵つけてたら

意味なかったからね…

 

実は このブログ、生徒の一部にバレてしまっていたのが途中で発覚したのだ…“やらかし”でしかない。が、辞めたから もう過去のこと。笑)

 

 

さて、たしかに昔、

“先生”のプライベート事情って

興味があったものだ。

 

(まあ、興味の湧かない先生もいるし、先生自体どうだっていいという人もいるとは思いますが)

 

思えば 中学生のとき、

休みの日に職員室を覗いたら

コワモテのオッチャン先生が

銀のネックレスをつけていて、

その意外性に

 ちょっとドキリとした記憶がある。

 

 

 

で、このブログが発見されるに至ったと

いうことは、“先生”である私に

少なからず興味をもっている子が

いたということだ。

 

 

じゃあ、“先生”でなくなった今は、

どうなのか?

 

そもそも“先生”とは、何をもって

“先生”となるのか…

 

 

教育機関に勤めていることで

呼び名は必然的に「先生」だった。

 

しかし、自分が尊敬できなければ

“先生”とは思わない、という人も

多くいると思う。

 

その逆も然りで、

教育機関に勤めていなくても

“先生”となりうる人だって

ごまんといる。

 

 

 

“わたし学校の先生なんだから

ちゃんとしなきゃ…!” 

と、形から、

自分の中身を律していた部分が

私自身は大きかった気がする。

 

菊池寛『形』の授業を思い出す。あれは 難しかったけども、授業を真の意味で楽しめたと思う。)

 

 

その“形”がなくなった今、

どこまで堕落してしまうのか、

怖いところもありますが…

 

 

答えのないことをつらつらと

書いても仕方がないのだけど、

 

要するに これからは

“先生”でなくなった私に

興味をもってくれるのであれば、

もう誰でも覗いていってくれ、と

いうことです。

 

 

なんか宣戦布告みたいに

なってしまいましたが。。。

 

やっぱり一度 “先生”として

接してしまった相手に

“自分”を全てさらすことは、

抵抗がある。恥ずかしい。

 

と、考えたところで、

そもそもブログ作った時点で

「恥ずかしいが読んでほしい」

と書いたのだから、

もはや同じことである。

 

 

てゆーか、そもそも

呼び名すら「江戸ちゃん」であることも

あり、彼ら・彼女らの どれほどが

私を“先生”だと認識していたか、

そこから問い直さなければなるまい。。。

 

 

ということで、これからは

またオープンにたまに時折

なにか書くので、気軽に

覗いてくれると嬉しいです、各位。

 

 

闇も人間だよね、ナウシカ。

 

 

風の谷のナウシカ』の原作漫画を、
久々に読みかえしました。

 

と言うのも。

 

 

先日 職場でジブリ作品の話になり、
ジブリ作品、個人的No.1はナウシカだ」
というわたしの発言から、
話題は ナウシカの原作漫画 へ。


読んだことがないという人に
話の大筋をプレゼンし、
「なんか鳥肌立ったわ…!」
「さすが国語科」などと言われ、

自分でも今のは うまくまとまったな!
自画自賛していた…

 

 

のも束の間。


同僚が
最後に補足してくれた
物語の真相である部分を、

 

わたしはスッカリ忘れていたのだ。

 

 

これは、自分の中でかなりショックだった。
何らかの面接でも
「尊敬する人物は?」という質問には
風の谷のナウシカです」という返答しか
用意していなかったほどなのに…。

 

 

(たしかにこういうことは、今までもよくあったように思う。どうやらわたしは物語上の展開の巧みさやストーリーの奥深さより、魅力的なキャラクターや印象的なセリフに大きく愛着をもつらしい。その人の性質によるものか、それとも男女の違いか?)

 

 

 

というワケで、今後一切忘れたくないので
しっかりと書いておこうと思う。

以下、小さい文字はネタバレです。
映画には、全く描かれていない部分。


(実際に読みかえすと「そうだった、そうだった」となるものだけど、思い出せないのって不思議な現象だよなあ)

 

 

風の谷のナウシカ』は、高度産業文明を崩壊させた“火の七日間”と呼ばれる戦争の約1000年後の世界、という設定。腐海(ふかい)」と呼ばれる、人間にとって毒となる胞子や瘴気を放つ森が拡がり、人類はわずかに残された土地で生活している。しかし実は「腐海」は、“火の七日間”によって汚してしまった世界を浄化するために 人類が故意に造り出したものだった。胞子を運ぶ巨大生物「蟲」も、また然り。そしてその永い浄化の時を待ち、人類の叡智と新たな生命を新時代へ受け継ぐために建造されたのが、「シュワの墓所」という施設(人工生命体)。来る時まで「シュワの墓所」を引き継ぐために、現人類の身体もまた、「腐海」の汚染に適応するよう造り変えられていた(本来ならば、ガスマスクだけで瘴気を防ぐことなんてできないのだ)。全てが浄化された後の世界を待ちわびる「シュワの墓所」だが、それをナウシカは真っ向から否定し、巨神兵に破壊させてしまう。今生きている世界や人類がいずれは“浄化”されてしまうものと知りながら、人間らしく生き続けていくことを選ぶ。

 

 

…というストーリー。

 

 

 

改めて、
宮崎駿のメッセージ性が、、強すぎる。。。笑

 

 

 

そして、今のタイミングで読んで、
意外にも、気持ちが少し楽になった

 

 

最近のコロナ禍で、それにともなう
人の行動やら政治やらマスコミやら、
そういうものが やたらと目に付いて。


…なんだか人間って醜いよなぁ、と
自分も含めて悲しくなり、
出家でもしたい気分になることが多かった。

 

(友人Mは、昔から「寺に嫁ぎたい」と言っていたようだ。十代の頃から、俗世のしがらみを憂いていたとは…流石としか言いようがない。)

 

 

 

でも、それも含めて人間なんですね。

 

「シュワの墓所」に向けて、
ナウシカは こう語っていた。

 

“その人たちは なぜ気づかなかったのだろう
 清浄と汚濁こそ生命だということに”

 

“苦しみや悲劇や愚かさは
 清浄な世界でもなくなりはしない
 それは人間の一部だから…

 だからこそ苦界にあっても
 喜びやかがやきも またあるのに”

 

 

3年前に読んだときと同じ場面で、
また衝撃を受けてしまった。
忘れていた。そうだな、そうだったんだな。

 

 

 

“私たちのように凶暴ではなく
 おだやかでかしこい人間となるはず” のものを、
焼いてしまったナウシカ

 

その罪深さを吐露するなかで、
トルメキアの国王であるヴ王


“そんなものは人間とはいえん”

と、言い切ってしまう。

 

いっそ清々しい。

 

 

宮崎駿は、人間のそういう部分を
丸ごと愛しているのかもなあ。

 

あの人は、しっかりと
暗い感情も持ち合わせているもんね。

 

(きっと『千と千尋の神隠し』のカオナシなんかも、孤独とか、その類のメタファー的な立ち位置だと思う。文学的にジブリを観ていくことは、すごく面白そうだ。)

 

 

 

 

 

わたしは基本的に 人という存在が好きだし、
いろいろな人の心の中を覗く気分になれるので
ツイッターが好きである。

 

 

 

ただ、インスタグラムと比べて、
ツイッターは暗い内容が多いと聞く。
(そして実際に、ツイッタラーは根暗が多いと思う。気持ちが分かる。わら。)

 

隙あらばツイッターを眺めているから
憂鬱な気分になってしまうのかしら、
それを控えてみようか…とも考えたけれど。

 

 

 

陰も含めてこそ、人間なのだ、やっぱり。

 

 

ということで、これからもすすんで
TLの監視を続けていきたいと思う。 

 

 

豪華装丁本「風の谷のナウシカ」(2冊セット)

豪華装丁本「風の谷のナウシカ」(2冊セット)

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仕事、辞めます。

 

 

昨日、大好きな主任に
「今年度いっぱいで
 仕事を辞めるつもりでいる」
という心中を伝えた。

 

 

早すぎる気もしたけれど、
色々考えて、このタイミング。

 

 

あまりにも突然の告白で、
主任は本当に驚いていた。
思っていた以上に。

(わたしにとっては ずっと前から考えていたことでも、主任からすれば突拍子もないことなので 当たり前ではある) 

 

 

 

そして、すごくショックな顔を
させてしまった。

 

その瞬間に とてつもなく胸が痛んで、
「わたしは この人にこんな顔をさせてまで、
 どうして転職する必要があるんだろう」
と激しく心が揺れたし、
なんだか泣きそうになってしまった。

 



今でも、思い出すと、苦しい。

 

 

 

 

 

それでも、ゆくのだ。

 

こんな情勢のなか、安定した職を
手放す気でいるなんて、世の中を甘く見ている。
人間関係も良いし、
勤務が苦痛で苦痛で仕方がない、
というほどでもないし、
続けるほうが絶対に賢い選択だ

というのは、十分に分かっているのです。

 

 

でももう、一度決めてしまったら、
止められないのだ。
意固地かもしれないけど。

 

 

別れは、いつだって訪れるのだ。
何に対しても、いつかは必ず。

 

いちいち後ろ髪を引かれていたら、
進めなくなってしまう。


人生は、波だったり電車だったり、
いろいろなものに喩えられるけど、
それこそ“乗る”機会を逃してしまうと、
そのうちに、乗る気もなくなってしまうのだ。

(アニメ『輪るピングドラム』を思い出すなあ)

 

 

乗る気があるのなら、
いつだって乗れるものも、あるけどね。

 

 

 

今いかなければ、絶対に後悔する
と、わたしは強く思っている。

 

 


「まあ、人生はタイミングだからね…」

 

「江戸さんが こうして良かった、
 と思えるよう、応援してるから」

 

「でも、だからと言って
 “今年度だけ”っていう色眼鏡では
 見たくないから、一旦このことは忘れて、
 今まで通りに接するからね」

 

と、最後は言ってくれるのが、我がボス。仏だ。


(文字におこすと ありきたりな言葉に聞こえるけれど、主任の武器は人柄だ。てきとうで、けっこうふざけているのに、その大らかさと笑顔で皆、この人には敵わないなぁと思わされてしまう)


今年、全力でやり切るつもりでいる。
とは言え、結局コロナ休暇ですが。

 

 

 

 

安定志向のオットを、
わたしの決める人生に
巻き込んでしまっているのは
悪いなあと思うけど。

現実的な人がそばにいてくれるから、
わたしはドラマティックを望めるのだな、
とも思う。感謝である。

 

 

いや、独りでも、
野垂れ死ぬ覚悟でいましたし!
…と言い切りたいところだが、
結婚してしまった今の立場では、
そんな言葉は通用しないのであります。

 

「結婚したもんね」と、
“寿退社”という言葉が似合ってしまうし。
わたしがもし男の人だったら、
「結婚したばかりで?」と、
気の毒なことに顰蹙を買うだろうから。
(そんなこと、ないのかな。もう世論は、思ってる以上に進んでいるのかな。わからないけど。)

 

 

 

でもどうにか、一人の人間として、
まだまだ頑張りたい。

 

 

 

男にも女にも、浪漫があるのだ。

 

 

 

子どもなんて、と思っていたけど。

 

一昨日が暑かったために、昨日オットは
半袖半パンで出かけていった。(5月)
所用があり、電車で梅田。
(周りに同じ服装の人がいなくて)
「ファッションの最先端にいるみたい!」

と、連絡がきた。
真似できる芸当ではない。

 

 

 

 

 

ここ最近は本当に時間があるから、
ずっと気になっていた映画やドラマなんかも
突発的に観られて、嬉しい。

 

 

永い言い訳』を観ました。

“妻が死んだ。これっぽっちも泣けなかった。
 そこから愛しはじめた。”

 というのがキャッチコピー。

 

西川美和という女性が原作・脚本・監督
すべてを手がけている作品なんだけど、
個人的に 男の人の映画だな、と思った。
ていうか、あれかな、
男の人に観てほしいという、
ただの願望なのかもしれない。
妻を亡くした、2つの家族の話。

永い言い訳

永い言い訳

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映画の本筋とはきっとズレた感想に
なると思うから、あらすじは省きます。


観ているなかで、自分がこれまで
“子ども”に対して抱いていた気持ちが、
明らかに変わったシーンがあった。
(ここでは 自分の子ども、という意味で)


だから、書いておきたい。

 

 

物語の終盤、竹原ピストルが演じる父の
トラックの助手席に、息子が乗り込むところ。

 


この父なら…
「何話してたんだよ~、お前」
とか、
「お前はホントよく分かんねえヤツだよな~」
とか、
そういう感じの言葉をかけてそうだ、
という想像をしたところで。

 

 

ああ、
オットも子どもも、結局は
“よく分かんねえヤツ”だよな、と気付いた。

 

 

“子どもには子どもの人生がある”という
言葉は 今までもいろんな場面で聞いたし、
もちろん そうは言っても
“親には子どもの人生について
責任がある”ことも、分かっている。

 



昔読んだ、川上弘美の短編「aer」
という話の一節にも、脅されたことがあるし。


“一度この世に存在してしまったアオは、
 順当にゆけばわたしよりも長く
 この世に存在する。
 つまりわたしが生きている間
 アオがいなくなることはないのである。
 まいった。知らなかった。
 考えようとしなかった。”

 

“アオ”というのが、この話の中での子ども。
自分が生み出した 子どもという存在は、
通常、自分の人生に一生付きまとう。
(それが望ましい形なのだ、もちろん)

 

わたしは、自由な時間を
たぶん心底愛しているから、
そんな存在が生み出されることに
とても怖さを感じる。

 

だから正直、願望もなく。

 

 

ドラマ『コウノドリ』を観ても
「実際にできたら、母性ってモンが
 でてくるんでしょうね…まぁ、いつかはね…」
という気持ちになるのが精一杯、という
ぐらいだったのですが。

 

 

自分の子どもと言えど、結局は
よく分からない一人の人間なんだ、
と思うと、逆に気が楽になった気がする。

 

 

いま、よく分からない男の人と二人で
“夫婦”として、なんとか生活している。
それが、一人二人と増えて、
“家族”として共同生活をしていくだけなんだな。

 

 

それは、絶対に億劫ではあるけど。

 

 

自分が生み出した人間が、
どんなふうに成長していくのか、
そばで見守り育むことができるとは。
興味深くて、面白いことかもしれない。

 

 

初めて、しっかりと心から
「子ども、欲しいな」と思えた。

何がキッカケになるかは、
分からないものですな。

 

 

まあ、「いつかね」というのは
まだまだ変わらない話ですが。

 

 

 

まわりで、ご懐妊・ご出産の
おめでたい話が、ちらほらと。
本当に心から、おめでとうございます。
ご成長、楽しみですね。

 

「何者」になりたい?

 

前回は思わずポルノオタク路線へと
突っ走ってしまった…
反省はしていますが後悔はしていません。

 

 

 

 

この先の仕事や人生なんかについて
考えるとき、いつもボンヤリと頭の片隅に
あった疑問のようなものを、まとめたい。
(きっとまとまらないと思うけど、言葉にしておきたい)

 

 

多分、生きてるなかで誰しも
一度は考えるであろう、
「私は何をしたいのか」ということ。
進路相談か?という感じですが。


もっと言えば、
「私は何者になりたいんだろう?」

 

 

 

ということで、劇場公開時ぶりに
映画『何者』を観ました。(単純)

 

 

人として、誰が一番価値があるのか”
という
言葉が予告では使われていたけれど。
こんなパンチのある、ともすれば炎上しそうな
表現をするなんて、なかなか挑戦的だな。

 

 

↓※あらすじと感想。
(5人の男女が協力し、内定目指して就活をする話。佐藤健菅田将暉有村架純二階堂ふみ岡田将生、それぞれキャラクターが立ってて良い。人間的な闇深さがリアルで、胸の中が掻き回される。個人的に、自分を否定されたような後味の苦さがあった。後半の演出も面白くて、好き。あと山田孝之の理系院生感がまたリアル。もし観たなら、ぜひ色々な感想・考察を読み漁ってほしい。)

 

 

就活には、人それぞれに
様々な理想の就職先があって、
そこに入るための勝負がある。
わたしも試験ではそうだったけど。

 

その先に、何があるんだろう。

 

企業への就職ではなく、
“これからは個の時代。
世界に通用する人間にならなきゃ。”
というようなセリフもあったけど。

 

“世界に通用”して、どうしたいんだろう。

 

 

悶々と考えるうちに、

生きる意味とは、生物としての種を存続させることで、ならば生殖のほかに意味のあることなどないのではないか、いっそカゲロウのように死んでいくべきなのでは…

みたいな厨二病的思考に、
いまだによく陥ってしまう。
26歳なのに。

 

 


「こんな俺らにも、何かデッケェこと
 できるんじゃないかって」
と、バンドマンは よく言います。
いや、バンドマンに限らずですが。笑

 

どうして人は そう願うのかな。
マズローの欲求五段階説、
というのに基づいているのかしらん。

 

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こういうの。

 

 

 

 

ただ、相反する考え方もある。

 


以前観てたドラマ『カルテット』から、
松田龍平のセリフで印象に残ったもの。

 

 
“みんながみんな、
 向上心をもつ必要はないと思うんです。
 みんながみんな、
 お金持ち目指してるワケじゃないし。
 みんながみんな、
 競争してるワケじゃないし。
 ひとりひとり、丁度良い場所って、
 あるんだと思います。”

 

 

ん~~、たしかに。

 

向上心なんか持たなくても、
満たされることはできる。
いくらでも幸せになれる。

 

大きな夢を持たなくたって、
十分に生きていけるのだ。

 

 

でも、それって“諦め”なのかなぁ。

 

実際、松田龍平はドラマの中で、
自分には音楽の才能がないことを
何度も痛感している。

 

本当はみんな、どこかで
「何かデッケェことしてみたい」
という夢を、見てるのかな。
もしくは、見ていたのかな。

 

 

 

(素朴な疑問だったので、ツイッターで「もし有名になれるなら なりたいか」というアンケートを取ってみたら、「なりたい」43%「なりたくない」57%でした。28票中。笑  統計とってみたら、どうなるんだろう。理由も聞いてみたいけど。)

 

 

そしてきっと、
「有名になりたいなんて思ったこともなかった」
という人が、ひょんなことから
大物になることだってあるんだよな。
まあそれが、大物たる所以なんだろうけど。

 

人生の欲求において、
需要と供給が一致することなんて、
ごく稀なんだろう。

 

 

普段あまり聴かないけど、
back number の「日曜日」の歌詞で

 

“たとえ世界を救えなくたって
 有名になれなくたって
 君を守る為に生きられたら
 後悔しないだろう”

 

というものがあった。良いねと思う。

 

 

ただ、その生き方が どうしても
うまくできなかったのが、
ソラニン』の種田なんだよなあ…。
エモい。

 

 

 

ちなみにわたしは、きっと
「何かデッケェことしてみたい」派。

なんてったって、自己顕示欲強太郎だし…。

 

だから今でも、自分の価値を探しています。

 

 


みなさんは、どっち派でしょうか、

 

 

何者

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  • 発売日: 2017/05/10
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