“先生”という形

 

 

新年度になりました。

“先生”では なくなって、もう10日経つ。

次の仕事は決まっていて、

それまでの間 ゆるやかな日々を

過ごしています。

 

 

「先生」と呼ばれるのが

当たり前だった頃は、

「本当に先生じゃなくなる日が

 くるのだろうか?」と、信じられない

気持ちだったにも関わらず。

 

実際に終えてみると、

意外すぎるほど 自分とは無関係に

学校の慌ただしい日常は始まっていて、

「私は本当に先生だったのだろうか?」

とさえ思うほどです。

 

 

とかなんとか 考えていた矢先、

教え子ちゃん(どこまでを“教え子”と言っていいものなのかは、ずっと疑問だった。たとえば接したのは1ヶ月だったとしても、“教え子”と言っていいのだろうか?など…ぶつぶつ)

 

が、卒業後に教えたラインで

「入試、国語が一番高かった。

 3年間教えてもらったから報告しとく。」

なんて、伝えてくれたので。

 

 

ああ〜、ちゃんと

国語教師をやってたのね、私…

思わせてもらいました。

経歴詐称ではないようだ。笑

 

 

 

振り返れば、楽しかったなと

やっぱり思う。

大変だったが、よく笑った4年間だった。

 

「次は弟・妹が入ってくるので

 よろしくお願いします」

なんて言われると

胸がチクリと痛んだし、

(来年いないの、なんて言えなくてすまないな…)

 

部活の子や、卒業生を想って

どうしてるかな〜などと

ふと考えることが、

今も、これからも あると思う。

 

 

 

 

“先生”でもなく、ただのOLに

なるということで、ブログやインスタも

オープンにしてしまうことにした。

タグ付けとか、鍵つけてたら

意味なかったからね…

 

実は このブログ、生徒の一部にバレてしまっていたのが途中で発覚したのだ…“やらかし”でしかない。が、辞めたから もう過去のこと。笑)

 

 

さて、たしかに昔、

“先生”のプライベート事情って

興味があったものだ。

 

(まあ、興味の湧かない先生もいるし、先生自体どうだっていいという人もいるとは思いますが)

 

思えば 中学生のとき、

休みの日に職員室を覗いたら

コワモテのオッチャン先生が

銀のネックレスをつけていて、

その意外性に

 ちょっとドキリとした記憶がある。

 

 

 

で、このブログが発見されるに至ったと

いうことは、“先生”である私に

少なからず興味をもっている子が

いたということだ。

 

 

じゃあ、“先生”でなくなった今は、

どうなのか?

 

そもそも“先生”とは、何をもって

“先生”となるのか…

 

 

教育機関に勤めていることで

呼び名は必然的に「先生」だった。

 

しかし、自分が尊敬できなければ

“先生”とは思わない、という人も

多くいると思う。

 

その逆も然りで、

教育機関に勤めていなくても

“先生”となりうる人だって

ごまんといる。

 

 

 

“わたし学校の先生なんだから

ちゃんとしなきゃ…!” 

と、形から、

自分の中身を律していた部分が

私自身は大きかった気がする。

 

菊池寛『形』の授業を思い出す。あれは 難しかったけども、授業を真の意味で楽しめたと思う。)

 

 

その“形”がなくなった今、

どこまで堕落してしまうのか、

怖いところもありますが…

 

 

答えのないことをつらつらと

書いても仕方がないのだけど、

 

要するに これからは

“先生”でなくなった私に

興味をもってくれるのであれば、

もう誰でも覗いていってくれ、と

いうことです。

 

 

なんか宣戦布告みたいに

なってしまいましたが。。。

 

やっぱり一度 “先生”として

接してしまった相手に

“自分”を全てさらすことは、

抵抗がある。恥ずかしい。

 

と、考えたところで、

そもそもブログ作った時点で

「恥ずかしいが読んでほしい」

と書いたのだから、

もはや同じことである。

 

 

てゆーか、そもそも

呼び名すら「江戸ちゃん」であることも

あり、彼ら・彼女らの どれほどが

私を“先生”だと認識していたか、

そこから問い直さなければなるまい。。。

 

 

ということで、これからは

またオープンにたまに時折

なにか書くので、気軽に

覗いてくれると嬉しいです、各位。