みんな障害者(障害の話①)

 

 

どこまでが“健常者”で、
どこからが“障害者”なのか。

 

 

 

 

 

この間、仕事で受けた電話で,
何回聞いても相手の言葉が
聞き取れないことがあった。

 

 

 

その後 改善策について
調べていたところ、

 

 

“聴覚情報処理障害”と
いうものがあることを知った。

 

“聴力は正常であるにも
 関わらず、日常生活の中で
 聞き取りにくさが生ずるもの”
だそうな。

 

 

めちゃくちゃ分かる。

 

 

 

昔から「え?何て言った?」と
思うことが多くて、それなのに
聴力検査では異常なし。

 

 

昔に比べれば
少なくなったと思うし、

 

それに人は、多かれ少なかれ
文脈から推測できる言葉を
脳で補いながら話を
聞いているらしいけど。

 

 

 

 

「私には、聴覚情報処理障害が
 あるのではないだろうか」

 

という疑問が、ふと浮かんだ。

 

 

 

ただ、聴覚情報処理障害の
症状としては

“雑音の中で、自分に
必要な音を聴き取るのが苦手”

というのが大きいようだ。

 

私は、飲み会などでも
「音が混ざって相手の声が
 全く聞き取れない」
というほどではなかったので、

 

 

 

「あなたは聴覚情報処理障害です」
と診断されている人からすれば、
「いや、聴覚障害ナメんじゃねぇ」
という感じかもしれない。

 

 

でもそう考えていくと、
じゃあどこからが障害だ?
という考えになってくる。

 

 

人の声に聞き取りにくさを
感じて困ったことは、事実なのだ。

 

 

 

 

 

また、私は
「どうしたらいい!?」と
急ぐ状況になると
焦って頭が真っ白になるし、

 

 

時間管理も大の苦手だ。

 

「このくらいの時間で
大丈夫だろう」の
見通しを立てる上で、

 

移動時間や準備時間を
全く考慮できていないことに
後から気付く。

 

 

 

それに、課題も先延ばしで、
「ちゃんとやろう!」と
思いながら、手がつけられない。

 

(教員をしていながら、恥ずかしい話であるが…。ただその分、大人になればなるほどクセを直しにくいことも知っている。若い頃に矯正しておけるのがベスト)

 

 

 

 

 

そういう色々なことをふまえ、

「私、完全にADHD
(注意欠如・多動症)やん?」

と思っている。

 

 

ただこれも、はっきりと
診断を受けた訳ではない。

 

今まで働いてきた中で
向き不向きはあれど
クビになったこともない。

 

 

 

「簡単にADHDなんて
 言ってんじゃねぇ」

と、批判されてしまうと思う。

(こういうことについては、『障害の話②』で話したい。いずれ。)

 

 

 

 

まあそんな風に

「自分は、こういう障害を
 もっているのではないか?」

と悩みながらも”普通”に
暮らしている私に反して、

 

 

 

私の弟は
分かりやすい”障害者”だ。

 

 

基本的には「自閉症」で、
知的障害があるため、

 

歳は1つ下の現27歳だが、

 

感覚としては、
無口な幼児に
話しかけるのと似ている。

 

 

 

 

小さい頃は多動症もあって
教室で座っていられなかった。
そのため、支援学級に入る前は
母が教室についていたものだ。

 

 

そんな風に大変だったので、
小学校くらいまでは

 

「アンタ(=私)がおって
 助かったわ〜」と
母は言っていたのだが…。

 

 

 

 

しかしながら、
「迷惑をかけた」度合いでいうと、
徐々に立場は逆転したように思う。

 

 

母は身の回りを
キチンと整えたいタイプで、

 

例えば どんなに酔っていても
しっかりキレイにしてから
ベッドに入るような性格だ。

 

 

 

いっぽう私は

 

高校あたりから遅刻魔になり、

 

また学校から帰ったあとも
「まだ勉強するから放っといて!」
などと言いながら、

 

電気点けっぱのリビングで
風呂にも入らず寝落ちの日々。

(起きるたびに「死にテェ…」と絶望していた記憶がある)

 

 

母からすれば、到底
信じられない所業だった。

 

いくら言ってもきかない娘に、
けっこうなストレスを
抱えていたと思う。笑

 

 

「カズ(弟)なんか、毎日
 夕方には風呂入って
 22時には寝てるで!?
 色々手伝ってくれるし!」

 

と、言われている始末だった。

 

 

 

自閉症
「規則が乱れると不安になる」
という特徴があるらしいが、

 

私からすれば
「どうしたらそんなに
 規則正しく生活できるん?」
という敬意の対象である。

 

 

 

一体、どちらが
障害持ちか分からない。

 

 

 

 

(付け加えると、「障害持ち」という言葉も、しない方がいい表現だろう。人が生きていく社会に「障害」があるのであって、その人が「障害」を持っている訳ではない、という考え。「しょうがいしゃ」という言葉自体、なくなるのかもしれない。では「障害」とはどういう意味?と考え始めると終わらない)

 

 

 

 

「立ちはだかる障害が多くて、
 一人では生きることが困難な人」

が、障害者の定義らしい。

 

 

では、どこからが
「一人では生きることが困難な人」
になるのだろうか

 

 

 

通勤電車では、
色々な人を見かける。

 

 

毎朝、人混みで怒鳴りながら
走っていく人。

 

駅員に大きな声で文句を言う人。

 

極端に周りとの接触を避ける人。

 

 

 

全員、「なにか」あるんじゃ
ないかと思う。

 

 

 

 

じゃあ はたして、
私に立ちはだかる障害は
「なにもない」のか?

 

 

“普通”に生きている人は
みんな、健常者なのか。

 

あなたは健常者ですか?

 

 

 

「自分には障害はない」と、
思っているだけ
ではないか。

 

 

 

そんな自問自答を経て。

 

 

 

“障害者”と“健常者”が
いるのではなく、

 

単に個々の特性なのだと、
改めて思った。

 

 

 

“障害は個性”という言葉は、
そういう意味で
使われ始めたんだろうな。

 

 

 

 

 

 

とは言え。

 

「障害は個性だから、
 みんな平等だよ★」

 

と、言い切ってしまうのは、
あまりに無神経過ぎる話だ。

 

 

 

例えば、自閉症の特徴について

 

「人とコミュニケーションが
 非常に取りづらい障害なの」

と説明したところで、

 

 

いわゆる“健常者”に
「それくらいなら、みんな同じ」
と言われてしまうと、

 

表現の仕方や状況によっては
「一緒にされちゃ困る」
と思わせてしまうだろう。

 

 

 

 

昔、母がテレビを見て
泣いていることがあった。

 

計算のできる猿が
紹介されている番組だったか。

 

それを見て、

「猿でもできることが
 ウチの子はできない」

と、突然涙が出たらしかった。

 

 

 

(これは大学生くらいになってから聞いた実情で、当時小学生だった私はちょうど風呂から出てきてそれを目撃し、状況が分からなかった。焦った父が「早よ寝なさい!!!」と謎の怒り方をしたため、小学生だった私は幸いにも(?)深く考えず「ハ?何やねん(怒)」という気持ちで済んでいたのだが。笑)

 

 

 

 

まぁやっぱり、
“普通”から外れることは、

 

”普通”を求める人にとって、
多少なりとも
ダメージがあるだろう。

 

 

「できない」と、劣等感を
抱かされるほうは、尚更。

 

ツイッターで『初恋ざらり』という漫画を読んでいる。発達障害のある作者が、けっこうリアルな場面を描いているので、色々考えさせられる)

(1) ざく ざくろ👶初恋、ざらり電子書籍2巻発売中さん (@timtimtooo) / Twitter

 

 

 

 

たしかに、“普通”“一般的”“平均”
であることは、生きやすい。

 

身体のサイズで言うと
分かりやすいなと思った。

 

 

 

「足のサイズが小さくて
 合う靴がない!」

 

とか、

 

「体格が大きすぎて
 合う服がない!」

 

とか。

 

 

それぞれの魅力は
たしかにあるはずだけど、

 

やっぱり世間は“普通”に
合わせるもんな。

 

そのラインから
外れれば外れるほど、
生きづらさを感じることは
増えるのかもしれない。

 

 

 

しかし、
そういう人達のために

 

小さなサイズの靴だけを
扱うコーナーがあったり、

 

大きなサイズの服だけを
扱う専門店があったりする。

 

 

 

特別支援学級」や
「支援センター」があるのは
それと同じと考えればいいか。

 

 

一般的なところで
カバーできない部分を、
補っているだけだ。

 

そして誰にでも、
そういう部分はある。

 

 

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下記サイトからの図。「平等」と「公平」の、けっこう有名な例え話。
それぞれのサイズに合った配慮があるということで。。。


www.teensmoon.com

 

 

 

 

“自分も含め、みんなに障害がある”
と思って生活していれば、

 

例えばちょっとくらい
公共の場で何か
ブツブツ言っている人がいても、
気にならなくなるんじゃないか。

 

 

「あぁ、この人は
 そういうタイプの人」

 

それ以上もそれ以下も、
なくていい。

 

 

例えば白杖の人がいて、
キョロキョロと止まっていたり
白杖を上に掲げていたりすれば

 

その時は手を貸したらいい。

 

 

でもそれは、
“障害者だから”じゃなくて、
“困っていそうだから”なのだ

 

 

倒れた人がいれば
助けるのと同じで、

 

そこに、“健常者”と“障害者”の
境目は ないと思う。

 

 

 

 

 

以前から、

 

「障害があるなんて可哀想」
という言葉は もってのほかだし、

 

「障害があるけど頑張ってる」
という言葉にも嫌悪感があった。

 

 

 

今は、その理由が分かる。

 

”健常者”の目線で
 偉そうにモノ言ってんじゃねえ

という気分になるのだ、おそらく。

 

 

 

 

 

 

 

 

と、思いつつ。

 

 

 

たとえば
芸能人の、クセのある喋り方を
真似する芸人はいるが、

 

真似する対象がいかにも
“障害者”だった場合には

 

「いや、まじでやめとけ」
と、なるだろう。

(それが”正常な感覚”だと思う)

 

 

 

 

でも私自身は、
“障害者”である弟の口真似をし、
姉として立派に(?)
彼をからかっているし。

 

 

私が弟の口真似をしている場面を
もし赤の他人に見られたら、

「”障害者”の真似をして
 からかっている最低な女」

になるだろうな、間違いなく。笑

 

 

 

そもそも、

”障害者”をおもしろおかしく
 真似するなんて、最低だ

という考え自体が、”健常者”ぶってる

 

これは、ひねくれ過ぎた考えだろうか。

 

 

なんとも、難しい話だ。

(このブログは大体いつも、モヤモヤッとさせて終わる)