ちいこ命とエゴイズム

 

 

最近「ちみたん」の、

独特な言葉遣い(ちみたん語)が

地味にクセになっている。。。

(ちいこ命=小さな命)

 

 

 

 

 

さておき。

 

 

生後3ヶ月の犬を飼い始めた。

オスの、コーギー犬である。

 

 

 

 

手がかかるのは承知の上

だったけれど、予想以上だ。

ここ最近の私の脳内は、見事に

彼のことで埋め尽くされている。

 

 

 

それも、「可愛い!!」ではなく

 

「心配!!」という感情が圧倒的。

 

 

迎えてそろそろ一ヶ月。

 

可愛い反面、

イタズラも増えてきて

もう、しんどい。笑

 

 

 

 

 

子犬を世話し始めてから、

 

 

親が小さい子に抱く

「やっと寝てくれた。」

という気持ちを、

 

ほんの少しだろうけど、

体感できている気がする。

 

 

 

 

とにかく、目が離せない。

 

 

 

室内犬なので まずは

トイレトレーニングだが、

 

 

こちらが必死に観察していても、

パピー(子犬)は目を離した

一瞬のスキを狙って粗相をする。

 

 

 

留守番が長いこともあって

なかなかトイレを覚えられず、

 

出来たり出来なかったりを

繰り返している。

 

 

 

付きっきりだった初日に

見逃してしまった際には、

「あれだけ見てたのに…!!」と

ひどく落胆してしまった。

 

 

 

 

人間で言うと3〜5歳あたりで、

構ってちゃんのイタズラ盛り。

 

 

人や物を何でも噛む子には

なってほしくないので

しつけを考慮しつつも、

 

頃合いを見ては遊んで、

ストレスを発散させる。

 

 

 

出来ていたことが

出来なくなると、

 

 

「あの やり方が合ってなかった?」

と、本や動画に頼る日々。

 

 

 

それはもう、

ノイローゼになるんちゃうかと。笑

 

 

 

 

 

 

 

まあそんな感じなので、

 

 

スヤスヤ寝ている姿を見ると

やっっと気を緩めて、

 

「ま〜〜なんて可愛いんザマショ…」

 

と、なれるのだ。

 

 

 

 

そんなこんなしていると、

 

こんなに疲れるのに

 何で犬飼ってるんだろう?

 

と思えてくる。

 

 

 

 

誰に強要された訳でもない。

 

 

ただの「犬を可愛がりたい」

という欲求を満たしたいだけ、

 

人間様の完全なる

我儘、自己愛、エゴイズム。

(ペット=「愛玩動物」という名称が、それを物語っている。。。)

 

 

 

 

「犬を幸せにできるのか?」

 

「単なるエゴで飼われた犬は

 可哀想ではないのか?」

 

「共働きの家で、寂しい思いまで

 させて、飼う必要は?」

 

 

 

 

 

もちろん犬を迎え入れる前にも、

激しく悩んだ。

  

 

 

 

 

   

 

 

 

でも、こうも思ってしまう。

 

人間も同じじゃね?

 

 

 

 

「赤ちゃんが欲しい」

「子どもを育てたい」

と、なぜ思うのか。

 

 

 

たしかに、そもそも

地球上の生命の第一目標は

「種の存続」だと思う。

 

 

 

昆虫だって動物だって、

次の命を残すために

本能的に進化しているし。

 

 

結婚したら子どもを生むのが

自然な流れだ、と考える人が

多いのは、当たり前だろう。

 

 

(もちろん大前提として、”「命をつなぐ」っていうのは素晴らしいこと”と、道徳の授業でも取り扱った覚えがある。そのときは黒板に家系図を書いた。大体3世代くらい遡ると、名前も顔も分からないご先祖様が逆・ネズミ式で増えていく。そんな多くの命を経て、私は生まれ、生きている。これは、けっこうすごいことだ。)

 

 

 

 

 

 

…でも、だからって、このご時世。

 

 

「世継ぎを残さねば」的な

お家柄ならまだしも、

 

 

 

「子どもなんて育てたくない…。

 けれど、これは使命だから!

 絶対に子を残し、

 育てなければならないから…!!」

 

 

 

と、仕方なく子どもを生む

親なんて、いないはずだ。

 

(望まない妊娠は論外です。喜んだならいいけど)

 

 

 

もちろん周囲からのプレッシャーや

様々な事情が あったにせよ、

 

 

少なくとも どこかのタイミングで

 

「子どもが欲しい」

「ヒトを育てよう」

 

と いう決心があるのだ。

 

 

 

 

 

それに反して、

 

 

生まれてくる命に

決定権はない。

 

 

 

 

「子どもは親を選べない」

という言葉があるように、

 

生まれてきたところが

どんな環境であれ、

選びなおす訳にはいかない。

 

 

(「赤ちゃんは、親を選んで生まれてくるんだよ」という説も聞いたことがあるが、あっちの世界のことは知らないので置いておく)

 

 

 

子どもを生んで育てるのは、

親のエゴイズムなのだ、つまるところ。

 

 

 

 

さくらももこが、エッセイで

息子さんの赤ちゃん時代について

 

”「育ててくれなんて頼んだ覚えねえよ」

 という言葉をよく聞くが、あれは本当だ。

 赤ん坊があまりに可愛すぎて、

 親は頼まれずとも勝手に育ててしまうのだ”

 

という風に書いていたのを覚えている。

(どのエッセイだったか、忘れてしまったが)

 

 

 

 

 

 

なんだか そう考えていると、

 

一緒にするのはおかしいと

分かりながらも、

 

 

 ペットもヒトも同じじゃないか

 

という考えに行き着いてしまう。

 

 

 

違うところを並べれば、そりゃ沢山。

寿命から手のかかり具合から、

色々違うけどさ。

 

 

 

 

 

結局、エゴイズムによって、

育てることを選択したのは同じだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

じゃあ、そうだとして、なんだ。

 

そんな身勝手な理由で、

生まない方がいいのか。

 

幸せにできる確証もないのに、

育てる選択は間違っているのか。

 

 

 

 

 

 

親の「子ども」である

自分自身に置き換えて、考えた。

 

 

エゴイズムによってこの世界に

生み出された結果、幸せか?

 

 

 

 

幸い、私は現在、この世界を

楽しんで生きている。

 

 

「よくもこの腐敗した世界に

 生み落としてくれたな」

とは思わないし(『月光/鬼束ちひろ』?)

 

 

 

 

「生んでもらえて良かったな」

と、いう感想。(人生28年現在)

 

 

長い人生なので、

「しんどい>楽しい」という時間も

もちろん幾度もありますけども。

 

 

 

結果的に こう思えているのだから、

 

単なる”親のエゴ”だけでは

なくなった、ということだ。

 

 

 

 

もっとお金持ちの家だったら、

もっと兄弟姉妹が多かったら、

もっと別の地域だったら、

 

もっと幸せだったのかもしれない?

 

 

しかし、

そんな結果は知る由もないし、

言い出せばキリがない。

 

 

 

ヒトだって、与えられた環境で

成長していくしかないのだ。

 

その中で、「幸せだ」「楽しい」と

感じることができれば、万々歳だと思う。

 

 

 

 

 

それならば、

 

自分自身のエゴで

命を育てると決めたとき、

 

 

 

自分が精一杯できることは

 

 

”その命が

「生まれて良かった」

「生きるのって楽しい」

と思えるよう、できる限り

愛情を注いで全力を尽くす

 

くらいしか、ないのではないか。 

 

 

どんな環境であっても。

 

 

 

 

 

 ただ、

ヒトの心や、社会は複雑過ぎて、

 

親が力を尽くすだけでは

どうにもならない部分も

沢山あるけれど。

 

 

 

 

その分、ペットが生きていく上で

どれだけ「楽しい」と感じられるかは、

 

ほとんど 飼い主にかかっている。

 

 

 

彼にとって、恵まれた環境という

わけではないかもしれない。

 

 

でも、持てうる手段や力を尽くして、

 

これから生きる十数年の間に

「生きてて楽しいな」と思える瞬間を

できるだけ増やしてあげることが、

 

自分のエゴに付き合わせる責任だと思った。

 

 

 

 

 

結局、可愛いんです、あのコ。

惚れたもの負けである。

 

心配で、よく怒っちゃうけど。 

 

 

 

 

 

…まあ そうは言えども、

 

自分を大事にしなければ

他の命も大事にできないので

 

 

 

疲れたら ちょっと放ったらかして

一人になることも、許してね。(勝手)

 

 

ヒトの赤ん坊は そうはいかないので、

本当に育児は大変だろうと思う。

 

 

 

 

…とかなんとか、

 

共働きで犬を飼うことに対して、

必死の言い訳を 述べただけな気もする。

 

人生、エゴばかりだなぁ。