闇も人間だよね、ナウシカ。
『風の谷のナウシカ』の原作漫画を、
久々に読みかえしました。
と言うのも。
先日 職場でジブリ作品の話になり、
「ジブリ作品、個人的No.1はナウシカだ」
というわたしの発言から、
話題は ナウシカの原作漫画 へ。
読んだことがないという人に
話の大筋をプレゼンし、
「なんか鳥肌立ったわ…!」
「さすが国語科」などと言われ、
自分でも今のは うまくまとまったな!
と自画自賛していた…
のも束の間。
同僚が最後に補足してくれた
物語の真相である部分を、
わたしはスッカリ忘れていたのだ。
これは、自分の中でかなりショックだった。
何らかの面接でも
「尊敬する人物は?」という質問には
「風の谷のナウシカです」という返答しか
用意していなかったほどなのに…。
(たしかにこういうことは、今までもよくあったように思う。どうやらわたしは物語上の展開の巧みさやストーリーの奥深さより、魅力的なキャラクターや印象的なセリフに大きく愛着をもつらしい。その人の性質によるものか、それとも男女の違いか?)
というワケで、今後一切忘れたくないので
しっかりと書いておこうと思う。
以下、小さい文字はネタバレです。
映画には、全く描かれていない部分。
(実際に読みかえすと「そうだった、そうだった」となるものだけど、思い出せないのって不思議な現象だよなあ)
『風の谷のナウシカ』は、高度産業文明を崩壊させた“火の七日間”と呼ばれる戦争の約1000年後の世界、という設定。「腐海(ふかい)」と呼ばれる、人間にとって毒となる胞子や瘴気を放つ森が拡がり、人類はわずかに残された土地で生活している。しかし実は「腐海」は、“火の七日間”によって汚してしまった世界を浄化するために 人類が故意に造り出したものだった。胞子を運ぶ巨大生物「蟲」も、また然り。そしてその永い浄化の時を待ち、人類の叡智と新たな生命を新時代へ受け継ぐために建造されたのが、「シュワの墓所」という施設(人工生命体)。来る時まで「シュワの墓所」を引き継ぐために、現人類の身体もまた、「腐海」の汚染に適応するよう造り変えられていた(本来ならば、ガスマスクだけで瘴気を防ぐことなんてできないのだ)。全てが浄化された後の世界を待ちわびる「シュワの墓所」だが、それをナウシカは真っ向から否定し、巨神兵に破壊させてしまう。今生きている世界や人類がいずれは“浄化”されてしまうものと知りながら、人間らしく生き続けていくことを選ぶ。
…というストーリー。
改めて、
宮崎駿のメッセージ性が、、強すぎる。。。笑
そして、今のタイミングで読んで、
意外にも、気持ちが少し楽になった。
最近のコロナ禍で、それにともなう
人の行動やら政治やらマスコミやら、
そういうものが やたらと目に付いて。
…なんだか人間って醜いよなぁ、と
自分も含めて悲しくなり、
出家でもしたい気分になることが多かった。
(友人Mは、昔から「寺に嫁ぎたい」と言っていたようだ。十代の頃から、俗世のしがらみを憂いていたとは…流石としか言いようがない。)
でも、それも含めて人間なんですね。
“その人たちは なぜ気づかなかったのだろう
清浄と汚濁こそ生命だということに”
“苦しみや悲劇や愚かさは
清浄な世界でもなくなりはしない
それは人間の一部だから…
だからこそ苦界にあっても
喜びやかがやきも またあるのに”
3年前に読んだときと同じ場面で、
また衝撃を受けてしまった。
忘れていた。そうだな、そうだったんだな。
“私たちのように凶暴ではなく
おだやかでかしこい人間となるはず” のものを、
焼いてしまったナウシカ。
その罪深さを吐露するなかで、
トルメキアの国王であるヴ王は
“そんなものは人間とはいえん”
と、言い切ってしまう。
いっそ清々しい。
宮崎駿は、人間のそういう部分を
丸ごと愛しているのかもなあ。
あの人は、しっかりと
暗い感情も持ち合わせているもんね。
(きっと『千と千尋の神隠し』のカオナシなんかも、孤独とか、その類のメタファー的な立ち位置だと思う。文学的にジブリを観ていくことは、すごく面白そうだ。)
わたしは基本的に 人という存在が好きだし、
いろいろな人の心の中を覗く気分になれるので
ツイッターが好きである。
ただ、インスタグラムと比べて、
ツイッターは暗い内容が多いと聞く。
(そして実際に、ツイッタラーは根暗が多いと思う。気持ちが分かる。わら。)
隙あらばツイッターを眺めているから
憂鬱な気分になってしまうのかしら、
それを控えてみようか…とも考えたけれど。
陰も含めてこそ、人間なのだ、やっぱり。
ということで、これからもすすんで
TLの監視を続けていきたいと思う。