「好き」と「人生」

 

 

本が好きだ。

 

 

 

最近は、よく読書をする。

 

 

一時期は 半年に一冊程も読めておらず、

 

“こんなんじゃ本が好きだなんて

 とても言えないな…”

 

と、自分の“本が好き”という気持ちに

自信を持てなくなっていたけれど。

 

 

 

 

時間ができると、やっぱり

読むようになった。

そんな自分に安心もする。

 

 

(いや、時間がなくても、本当に好きなら 読んでいるとは思うが…。)

 

 

 

 

 

ブログを始めて、自分の心と

よりよく向き合うようになり

つくづく思っているのは、

 

 

なにかにつけて自分は

人と比べてしまう性格、ということだ。

 

 

 

 

“わたし、本は たしかに好きだけど

  周りに比べれば全然よね…もっと

  本が好きな人、いっぱいいるよ…”

 

 

 

 

……いや、別にエエやん!!?(笑)

“本当に好き”ってナニ???(笑)

 

 

という感じ、なんだけど。

 

 

 

 

他のことについても、

 

「好きなら 好き、でイイんですよ」

 

と言われたこともある。

 

 

 

それでもやっぱり、何かにつけて

そう思ってしまうのだ。

 

 

 

つまり 裏をかえすと、

人より優位に立っていたい、という

気持ちの表れなのかもしれない。

恥ずかしいことである。。。

 

 

 

 

 

 

 

話を戻すと、最近は本屋に行って

“嗚呼、なんて最高の空間…”

と、くつろぐことも多く。

 

 

 

そうなると、

 

“これだけ本が好きなら、やっぱり

 本に関する仕事に就くべきか?”

 

“でも出版系の仕事で

 定時はあり得ない(だろう)し、

 書店員は やったことあるし…”

 

“今の理想を捨ててまで

 本に人生は捧げられない…

 わたしは所詮その程度の想い…”

 

と、また勝手にグルグル考えていた。

 

 

 

 

その時に、ふと

思い出した場面があった。

 

前に担任したクラスで、視聴覚委員が

決まらなかった時のことだ。

 

 

 

基本的に“視聴覚委員”は

図書や放送に関する仕事。

 

文化的なものが好きな子には

そこそこ人気もあって、

時には選挙になる場合もあった。

 

 

 

だが…我がクラスの、

男子視聴覚委員が一向に決まらん…

という事態勃発。

 

 

(学校にもよるけれど、勤めていたところでは「委員会は原則、立候補制」だった。大体は 意見を聞いて目星をつけ、立候補が被れば選挙…という流れで、担任の力量というものも多かれ少なかれ、発揮されるもの。ただ、事前に「立候補する」と聞いていたとはいえ、本人の気持ちが変われば仕方がないと思う。責任が生じたわけじゃないんだから。)

 

 

 

待てど暮らせど、立候補者は出ず。

 

(本来なら…誰かが責任感をもって立候補し、周りは感謝する、というのが理想的なのだ。美しい。けれど、社会は誰かの無理で成り立っている部分もある。報われないことを察知して、「自分は背負いたくない」と考えるのも、道理だと思う。「やりたい」と「やりたくない」の需要と供給が一致すれば、願ったり叶ったりだが…)

 

 

 

そこで、普段からよく図書室に

通っている子に白羽の矢が立った。

 

本好きなら、視聴覚委員も

きっと苦ではないだろう。

真っ当な推薦だと思って、

わたしも声をかけた。

 

 

「アナタはどうか、という声が

 あがってるけど、どう?

 いいんじゃない?」

 

 

 

しかし……彼は断固として言った。

 

 

 

 

「いや、僕は純粋に図書室を楽しみたいので」

 

 

 

 

 

……なるほどなぁ、、、(早い)

 

 

いま思えば当たり前の考え方かも

しれないが、目からウロコの気分だった。

 

 

「本好きなら、視聴覚委員

 やったらイイじゃん!?」とは、

実に安易な考えだったのだな。

 

 

達観している、とさえ思ってしまった。

 

 

 

 

 

 

その言葉を、本屋で思い出したのだ。

 

そして、なんだか気が楽になった。

 

 

 

「好きなら、自分もやったらイイじゃん!」

 

というのも一つの考え方だし、

 

ツイッターなんかを見ていると最近は

「絵を描くのが好きだから、漫画家に」

というような人が、増えたように思う。

(絵描きを多くフォローしているので、関連でたくさん出てくるだけだが) 

 

 

 

 

それでも、

「好き」の気持ちの大きさと

「人生」への関わりの深さは

必ずしも一致しないのだな、と

改めて感じさせられたのだった。

 

 

 

 

 

それと、数年前に一緒に組んだ先生が、

 

「何冊も読む人を世の中は“読書家”と言うが、

 愛着のある一冊を何度も読み込む人をこそ

 “読書家”と呼んでいいと思う」

 

と言っていたのも、印象に残っている。

 

 

 

 

本に関する仕事をしている

わけではないけれど、

数もそれほど多くないけれど、

やっぱり本が好きです

 

と、自分の気持ちに自信を持ちたい。

 

 

 

 

 

ちなみに視聴覚委員は結局、

異例のクジ引きで決めた。

(学校でよくある、「お前やれよ」の無言の圧力に 弱い立場の者が屈する、という状況になるよりは、よっぽど良かったのではと、個人的に思っている。いや、それに「やるべき」と自分で感じている子は、大体すでに出てくれているのだ。集団生活は難しい。大人だって、PTA役員をクジ引きで決めることが多い。)

 

 

「やりたくない」という意志が固く、

一周回って「お前ら…やるな…?」

という気分だった。

 

 

 

 

その結果、

「オレ委員会とか絶対やらんから」

という感じの子が

当たってしまったのだが、

 

 

「よりによって お前かい」と、

むしろクラスの空気が和んだ気がして

ありがたかったなぁ、と今も思っている。

 

 

本人は、

サイテーの気分だっただろうけれど。笑